しおの雑記帳

暇で、僕に興味がある人以外は見ないほうがいいです。黒歴史を生産します。自己満です。

<虚無>に充たされる?

繰り返しになりますが、これは深夜にTwitterに連投するくっさい文章をこっちに避難してるだけなので、今日も今日とて中二くさいです。

 

このブログの記事を書こうと思い立つのはたいてい夜中なのだが、この時間帯、僕の周りのいくつかのものは<虚無>に充たされている。それは、僕の気持ちであったり、Lineの新着メッセージであったり、あるいはTwitterのタイムラインに並ぶ文言だったりするわけだが、この「<虚無>に充たされる」という表現が、非常に逆説的だ云々と、先日友達と話していた。大学生は<虚無>の対義語であるところの<充実>を求めてタピオカを飲み、髪を染める。<充実>に充たされた存在、いわゆる<陽キャ>の像は、多くにとっての理想として確かに人々の脳内を占拠している。<陽キャ>は、SNSの発達によって平準化されていく価値観のなかで生まれた亡霊のようなものなのかもしれないが、とにかく僕らはそんな理想像に近づけない自分自身の現実を目の当たりにして<虚無>を発露する。<虚無>だとそのままTwitterにつぶやかれることもあれば、その感情が裏返しになって、「リア充爆発しろ」とか、少し前だと「スイーツ(笑)」みたいな表現として現出することもある。少しってかだいぶ前か。

僕はこれについて、何か良し悪しをつけて評価したいのではない。結局のところ、僕だって<陽キャ>でいたいし、他の皆もそうだろうと思っていた。ただ、なにが問題かといえば、僕がもともと恥ずかしがりなことである。親戚と話すときなんかはつい最近まで(今でも?)気恥ずかしさが勝っていたし、これはほとんど人に話していないが、実は家の中での一人称というものが確立していない。というのは、「僕」だとなんだか他人行儀な感じがするし、「俺」だと今度はきつい感じがするのである。一方で、見知らぬ人とは割合話せてしまうのは、以前書いた「純粋旅行者」的な思考が働くからだろうか。そんな恥ずかしがりな僕が<陽キャ>であろうとするとき、いずれどこかで歪みが発生する。それは、友達と柄でもなく大声で談笑しているときにポロっとでる失言かもしれないし、異性の気を引こうとして失敗する瞬間なのかもしれない。あるいは、クラスで下手に知識を披露して白い目で見られる時かもしれないし、会社で上司の期待以上の働きをしようとして空回りするときなのかもしれない。そういう時、「ああ、<虚無>だ。」と機械的に発声する。最近、これに何か意味があるのかと考えないこともない。もっと有意義なことに限られたリソースを割いた方がいいに決まっているのだけど。

もっと有意義なことというのは、SNSなんかに縛られない(<>付けもしない)、充実、だろう。僕は自転車に乗って、心拍数が190とか200みたいな、頭のおかしい数字になりながら延々峠を上っていくとき、あるいはそこからあほみたいなスピードで下っていくとき、瞬間的に充実を感じるような気がする。自転車に限らず、他にもいくつかそういう瞬間はあるのだが、何が言いたいかというと、「あれ?<虚無><虚無>言ってないで楽しいことした方がなんかいい感じじゃね?」という、至極まっとうなことに最近結構思いを馳せがちですよという話である。