しおの雑記帳

暇で、僕に興味がある人以外は見ないほうがいいです。黒歴史を生産します。自己満です。

先祖探しをしてみた(2)

たまってたので放出。ほぼ記録用。

Ⅲ栃木へ(1日目 1/5)

現地へ行こうといったって、曽祖父の転居前の住所に親類がまだ住んでいるかは分からない。そこで、事前にgoogle mapや電話帳で同じ姓の人、会社を探した。結果的に、2軒の工場と十数人程度の個人がヒットした。工場のうちの一軒は、それなりの規模で操業している様子であり、業務の内容も曽祖父が行っていたものと似通っていたため、まずはここを訪れてみることとした。この辺りは、そこそこ珍しい性だからこそできることだろう。

 

一月の関東の空は、雲がなくて、広い。このカラっと晴れる感じが好きだ。父の運転で首都高速から東北道に入ると、景色はいっそう広がる。高い建物が少なくなるにつれ、関東平野の広さを実感できるためだ。東北道の近くではないが、祖母がまだ住む父の実家が埼玉県内にあり、正月や盆にはよく訪れるため、この風景にはどこか懐かしさを覚える。片側3車線の威容を誇る東北道に入ってからは快調そのもので、あっという間に栃木県の佐野SAに到着。トイレ休憩とちょっとした買い物ののち、僕の運転で再出発、一路北を目指す。宇都宮からは片側2車線になるが、全くストレスなく矢板ICを降りて県道をしばらく行くと、人口4000人弱の、喜連川の町が現れる。「街」というには小さく、かといって、小説なんかで好まれそうな、山を分け入った先の集落というような過疎地とも言い難い、「町」である。コンビニだって町内にある。駅とイオンは隣町に。そんな感じ。

道の駅で食べたラーメン。スープが輝いている。

町に着いたはいいのだが、なにしろ我が家は朝に弱いので、もう昼時である。こんな田舎でも確実に昼食にありつけそうな場所といえば、道の駅。ということで、食堂でラーメンをすすった。道の駅から件の工場までは1キロもない。着いてみると、思っていたのよりも大きな建屋と、駐車場と思しき更地がある。規模からして、社員は10~15名程度だろうか。建屋に大きな文字で自分と同じ苗字を冠した社名を記してあるのがなんとも感慨深い。ところが、何しろ今日は1月5日。まだ年始の休みとみえて、工場の中は無人のようであった。

 

工場の主に出会うのはたやすかった。建屋の裏手にある家からちょうど軽四で出てきた女性に聞くと、工場は彼女の父が開いたものだという。事情を話すと、すぐに家に引き返し、その本人と我々を引き合わせてくれた。これは僥倖である。出てきたのは70前後くらいの男性。はじめは怪訝そうな様子だったが、戸籍をもとに父が作成した家系図を見せると、たちどころに心を開いてくれた。どうやら、彼は家系図の中に、自身の祖父の名前を見たらしい(図中の「岸松」の子であり、僕の直系ではない)。話を聞くと、驚いたことに彼が工場を開くにあたって必要な技術を学んだ場は、川崎の、僕の曽祖父の工場であった。おそらく、祖父とも顔を合わせているだろう。曽祖父の技術が受け継がれ、栃木にまだ続いていることを知り、感慨深い。彼からはもう一つ、重要な情報を聞くことができた。墓の場所である。と、言っても全く近所の寺ではあったのだが。

 

老人にお礼を言って、すぐ近くの寺へ。墓の数は多かったが、何より驚いたのは、我が家の苗字の墓が5基ほど見つけられたことである。特筆すべきは、私の高祖父、庄之助とその子供たち(=曽祖父とその兄弟)が昭和2年に建立したものがあったことだ。気になるのはその墓に入っている人の名前だが、墓石に刻まれている俗名のうち、多くは判読不能であり、分かったのは僕の高祖父の父(5代上)、文平が墓に入っていることくらいだった。「くらい」と書いているが、私の直系の先祖の墓であり、多くの墓石の中から発見した時の感激は筆舌に尽くし難い。

 

他には、おそらく本家筋と思われる立派なものが一つ。我が家がもっていた家系図にある名前は見られなかったので、明治以前に分家したものと思われる。また、この筋の墓にはその性の由来が刻まれた石があり、詳しくは翌日調べることとした。

 

寺の住職にも話を聞いた。墓の中に誰が埋葬されているかは、基本的に寺の過去帳にすべて記されているはずであり、戸籍以前の情報を知る手段として有効と考えたためである。しかし、結果として多くの情報は得られなかった。というのも、一昔前ならいざ知らず、現代では出身や家柄に関する差別を防止するため、寺として故人の情報をむやみに漏らすことはできないのだという。関西にいる間はそうした差別の残滓に触れることがままあったが、やはりこうした問題は全国的なのだ。そもそも、寺に何かお願いするときはいくらか包むのが常識であるようにも思われたので、深くお話を聞くことはせず、世間話を続けた。

 

このあたりで日が暮れてきたので、宿に戻ることに。途中、戸籍に記載されていた住所を訪れるも、空き家のようだった。この日の宿は「かんぽの宿」で、その名の通り経営は日本郵政だ。ちなみに、芝公園や京都駅前で見られるメルパルクも日本郵政の関係らしい。一昔前の公的機関の保養所というのがしっくりくる、派手すぎず、かつチープでもない造りの宿だった。ここで、地の川魚などに舌鼓をうち、温泉につかって一日を終えた。

 

(つづくかも)