しおの雑記帳

暇で、僕に興味がある人以外は見ないほうがいいです。黒歴史を生産します。自己満です。

はじめに

僕は、何か大きなイベントがあったり、大きな心の動きがあったりすると、B5の大学ノートにそのことを書きつけることがあります。その中には、他人に共有したらなかなか面白いんじゃないかと思うこともあったりして、たまにそういう話をTwitterにつぶやいたりするわけですが、いかんせん文字数が少ないのと、Twitterに載せるにはいささか重たい内容を含むことが多々ある関係で、ブログを作ってみました。基本的に自己満足で、人に見せるにしても内輪のものなので、僕に興味があるか、死ぬほど暇な人以外は見ることをお勧めしません。また、結構自分の考えを赤裸々に書くつもりなので、それによって不快な思いをされても僕は責任をとれません。ご承知おきください。

爪切り

ドイツに来てから1か月たった今日、トルコ系の店で散髪をして、家で足の爪を切った。

今年の春に、東南アジア旅行をしたとき持参した『地球の歩き方』の、旅の持ち物の欄に「爪切り」とあって、「旅の最中はなぜか爪が伸びるのが速い」と書いてあったことが思い出された。

 時間が飛ぶように過ぎていく中で、一度立ち止まって、その速さを実感できた瞬間だった。

先祖探しをしてみた(2)

たまってたので放出。ほぼ記録用。

Ⅲ栃木へ(1日目 1/5)

現地へ行こうといったって、曽祖父の転居前の住所に親類がまだ住んでいるかは分からない。そこで、事前にgoogle mapや電話帳で同じ姓の人、会社を探した。結果的に、2軒の工場と十数人程度の個人がヒットした。工場のうちの一軒は、それなりの規模で操業している様子であり、業務の内容も曽祖父が行っていたものと似通っていたため、まずはここを訪れてみることとした。この辺りは、そこそこ珍しい性だからこそできることだろう。

 

一月の関東の空は、雲がなくて、広い。このカラっと晴れる感じが好きだ。父の運転で首都高速から東北道に入ると、景色はいっそう広がる。高い建物が少なくなるにつれ、関東平野の広さを実感できるためだ。東北道の近くではないが、祖母がまだ住む父の実家が埼玉県内にあり、正月や盆にはよく訪れるため、この風景にはどこか懐かしさを覚える。片側3車線の威容を誇る東北道に入ってからは快調そのもので、あっという間に栃木県の佐野SAに到着。トイレ休憩とちょっとした買い物ののち、僕の運転で再出発、一路北を目指す。宇都宮からは片側2車線になるが、全くストレスなく矢板ICを降りて県道をしばらく行くと、人口4000人弱の、喜連川の町が現れる。「街」というには小さく、かといって、小説なんかで好まれそうな、山を分け入った先の集落というような過疎地とも言い難い、「町」である。コンビニだって町内にある。駅とイオンは隣町に。そんな感じ。

道の駅で食べたラーメン。スープが輝いている。

町に着いたはいいのだが、なにしろ我が家は朝に弱いので、もう昼時である。こんな田舎でも確実に昼食にありつけそうな場所といえば、道の駅。ということで、食堂でラーメンをすすった。道の駅から件の工場までは1キロもない。着いてみると、思っていたのよりも大きな建屋と、駐車場と思しき更地がある。規模からして、社員は10~15名程度だろうか。建屋に大きな文字で自分と同じ苗字を冠した社名を記してあるのがなんとも感慨深い。ところが、何しろ今日は1月5日。まだ年始の休みとみえて、工場の中は無人のようであった。

 

工場の主に出会うのはたやすかった。建屋の裏手にある家からちょうど軽四で出てきた女性に聞くと、工場は彼女の父が開いたものだという。事情を話すと、すぐに家に引き返し、その本人と我々を引き合わせてくれた。これは僥倖である。出てきたのは70前後くらいの男性。はじめは怪訝そうな様子だったが、戸籍をもとに父が作成した家系図を見せると、たちどころに心を開いてくれた。どうやら、彼は家系図の中に、自身の祖父の名前を見たらしい(図中の「岸松」の子であり、僕の直系ではない)。話を聞くと、驚いたことに彼が工場を開くにあたって必要な技術を学んだ場は、川崎の、僕の曽祖父の工場であった。おそらく、祖父とも顔を合わせているだろう。曽祖父の技術が受け継がれ、栃木にまだ続いていることを知り、感慨深い。彼からはもう一つ、重要な情報を聞くことができた。墓の場所である。と、言っても全く近所の寺ではあったのだが。

 

老人にお礼を言って、すぐ近くの寺へ。墓の数は多かったが、何より驚いたのは、我が家の苗字の墓が5基ほど見つけられたことである。特筆すべきは、私の高祖父、庄之助とその子供たち(=曽祖父とその兄弟)が昭和2年に建立したものがあったことだ。気になるのはその墓に入っている人の名前だが、墓石に刻まれている俗名のうち、多くは判読不能であり、分かったのは僕の高祖父の父(5代上)、文平が墓に入っていることくらいだった。「くらい」と書いているが、私の直系の先祖の墓であり、多くの墓石の中から発見した時の感激は筆舌に尽くし難い。

 

他には、おそらく本家筋と思われる立派なものが一つ。我が家がもっていた家系図にある名前は見られなかったので、明治以前に分家したものと思われる。また、この筋の墓にはその性の由来が刻まれた石があり、詳しくは翌日調べることとした。

 

寺の住職にも話を聞いた。墓の中に誰が埋葬されているかは、基本的に寺の過去帳にすべて記されているはずであり、戸籍以前の情報を知る手段として有効と考えたためである。しかし、結果として多くの情報は得られなかった。というのも、一昔前ならいざ知らず、現代では出身や家柄に関する差別を防止するため、寺として故人の情報をむやみに漏らすことはできないのだという。関西にいる間はそうした差別の残滓に触れることがままあったが、やはりこうした問題は全国的なのだ。そもそも、寺に何かお願いするときはいくらか包むのが常識であるようにも思われたので、深くお話を聞くことはせず、世間話を続けた。

 

このあたりで日が暮れてきたので、宿に戻ることに。途中、戸籍に記載されていた住所を訪れるも、空き家のようだった。この日の宿は「かんぽの宿」で、その名の通り経営は日本郵政だ。ちなみに、芝公園や京都駅前で見られるメルパルクも日本郵政の関係らしい。一昔前の公的機関の保養所というのがしっくりくる、派手すぎず、かつチープでもない造りの宿だった。ここで、地の川魚などに舌鼓をうち、温泉につかって一日を終えた。

 

(つづくかも)

先祖探しをしてみた(1)

Ⅰはじめに

なんかせっかくブログ作ったのに小難しいことばっか書いてもつまんねぇな、ってことでも少しそれらしいものを書きたくなりました。てことで今回は昨年から今年の1月上旬にかけて家族で行った、先祖探しについてつづります。個人的には探偵でもやっているような気分で、しかも自分のルーツについて知ることができて興味深い体験ができたので、興味があれば、みなさんもぜひ。

※役所の業務に関わる記述については誤りが含まれていたり、各市区町村によって対応が異なっていたり可能性があります。また、個人的な興味のために調査する場合、手を尽くしてくださる方々には最大限の感謝を忘れずに。

Ⅱ事前調査

さて、僕の苗字はそこそこ珍しく、それでいて有名な歴史人物と同じであるから、人に覚えてもらいやすい。高校1年の冬にあった生徒会選挙の演説では、その歴史人物ネタを冒頭にぶっこんで、一笑いかっさらわせていただいた(要出典)。実際のところ、我が家はそいつの子孫ではないらしいことは分かっていたのだが、それ以上のことはあまりはっきりしていなかった。昨年夏のある日、父がそれを調べてみようと言い出したのが、今回の旅行の発端である。といっても、今回分かったことのうちの大半は、この事前段階で明らかになったことである。この理由については、のちに判明する。

あなたがもし、自分の先祖について知りたいと思ったならば、まずすべきは、ご自身の居住する市区町村役場の戸籍を扱う部署を訪れ、『戸籍全部事項証明書』を申請することである。この書類には、自分が属する戸籍に記録されている全員の生年月日や続柄、本籍地などが記されており、手数料はたしか数百円だったと記憶している。戸籍は、戸主(多くの場合は一家の父親または長男)の元にその構成員が列挙する形で表記されている。この記録は、明治期に戸籍法が施行されて以降取られており、原則として自身の直系(親子関係をたどるとつながる人)が戸主になっている戸籍であれば取得可能である。つまり、自分が住んでいる市区町村の役場で、「『戸籍全部事項証明書』を私が取れる範囲で全てください。」といえば、数百円程度でその役場が持っている限りのあなたの先祖の戸籍に関する情報を出してくれる。

僕の父親がこの手続きを、住んでいる川崎市の某区役所で行ったところ、僕の曽祖父が戸主になっている戸籍まで取ることができた。曽祖父はその昔、区内で小さな工場を営んでおり、父も当時住んでいた埼玉県から川崎に住む曽祖父のところを訪れた経験があるため、ここまでは分かっていたことなのだが、大切なのは、そこに記されている転居前の住所である。確認したところ、栃木県塩谷郡喜連川町~となっている。塩谷郡喜連川町は、現在同県さくら市(≠千葉県佐倉市)の一部であることから、これより前の戸籍をたどるためには、さくら市で同様の手続きをとればよいわけだ。(ただし、自分がその戸主と直系血族であることを証明するため、最初に取得した書類をすべて見せる必要がある。)とはいえ、栃木県ともなると、気軽に訪れることはむつかしい。役所の開いている平日には仕事のある父ならなおさらだ。そこでさくら市のHPを確認してみると、同様の手続きを郵便で行うことも可能らしい。電話で詳細を問い合わせたのち、最初に取得した書類とネット上に公開されている申請書、身分証のコピー、手数料を同封してさくら市役所に郵送すると、数日で分厚い書類が返送されてきた(このあたりの手続きについては、各市区町村で異なる可能性があるため、要確認。)。田舎であることもあってか、電話で問い合わせたときの対応も親身で、返送は迅速だった。興味本位で行っていることにすぎないので、感謝である。
返送されてきた書類に書いてある情報は膨大なものだった。というのも、僕から見て5代前、文平というひとの戸籍まで取得することができたのである。文平は天保2年(1831年)生まれの明治31年(1898年)没。特筆すべきは、彼が婿養子であった点であり、隣の烏山町(現、那須烏山市)からやってきたとある。ちなみに、彼の妻キセの父の名は文六といい、今回僕との血縁が確認できた最も古い人物であった。おそらく、18世紀末から19世紀初頭の生まれであると思われる。情報量が非常に多いため、ここまでに取得した情報から一部を抜粋した図を描いた。(拙い字でごめんなさい!)

 

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さて、実のところ、栃木県の喜連川という地名は、我が家にとってまったく馴染みのない地名ではなかった。というのも、僕の祖父(すでに他界、昭和10年生)が、戦時に喜連川疎開していた記憶を父親が伝え聞いたことがあったのである。おそらく、親戚筋を頼りにして当地を訪れたのだろう。となれば、当時のことを知る人がまだ生きているかもしれない。かくして、我が家の栃木行きが決まったのであった。

(つづく)

成長とは?

※今回もメタ認知が暴走してます。

 

寒い。とにかく寒い毎日である。そして、気づけば国公立前期試験から早一年が経った。大学に入ってから本当に色々な場所を訪れ、色々な人と出会い、色々なことをした。その中には、必ずしも望ましいとはいえない結果に終わったものも少なくない。それらに関して僕は最近、この1年間は、自分の人間的成長に大きく寄与したと信じ(ることにし)ているし、周囲にもそう話す。敢えてそれをここに書き記しているのは、当然、単に「成長した」以上の含みがそこにあるからだ。

 

人は本能的に、自分の身、立場、評判等々を守るための行動をとる。人はつまずいたら受け身を取るし、イイ大学に入りたいし、運転が上手いと人に思われたい。僕が「成長した」と言うのも、それらと同種のものなんだと思う。事実、成長という単語は耳触りがいい。誰が聞こうとそのポジティブな語感が揺らぐことはないし、人が成長したといえばそれを讃えるのがセオリーである。讃えられるのは、心地よい。だからこそ、さまざまな、貴重な1年間の経験を簡単に一括りにして、自分の成長の糧となったのだと人前でしみじみ語ることを躊躇わない。もはや役者のように。そうして、成長した分だけ周囲よりも上位にいるかのように自身を錯覚させ、それに浸ることで、この一年で失ったもの、悲しい思い出その他諸々を都合よく忘れようとするのだ。臭いものに蓋という言葉がよく似合う。

 

これは一見すると、一つの立派な解決策ではある。周囲にマウントが取れて自己肯定感が上がりそうだし、そもそもそれが本能的なものならば、避けようがないではないか。うん、それはそうなんだけど。

ここのところ、それでいいのかという思いが付きまとう。失敗体験だとか、自分に落ち度がないにしても、よくない結果に終わってしまった経験をどう咀嚼するか。まだまだ思考(試行)の余地はありそうだ。

<虚無>に充たされる?

繰り返しになりますが、これは深夜にTwitterに連投するくっさい文章をこっちに避難してるだけなので、今日も今日とて中二くさいです。

 

このブログの記事を書こうと思い立つのはたいてい夜中なのだが、この時間帯、僕の周りのいくつかのものは<虚無>に充たされている。それは、僕の気持ちであったり、Lineの新着メッセージであったり、あるいはTwitterのタイムラインに並ぶ文言だったりするわけだが、この「<虚無>に充たされる」という表現が、非常に逆説的だ云々と、先日友達と話していた。大学生は<虚無>の対義語であるところの<充実>を求めてタピオカを飲み、髪を染める。<充実>に充たされた存在、いわゆる<陽キャ>の像は、多くにとっての理想として確かに人々の脳内を占拠している。<陽キャ>は、SNSの発達によって平準化されていく価値観のなかで生まれた亡霊のようなものなのかもしれないが、とにかく僕らはそんな理想像に近づけない自分自身の現実を目の当たりにして<虚無>を発露する。<虚無>だとそのままTwitterにつぶやかれることもあれば、その感情が裏返しになって、「リア充爆発しろ」とか、少し前だと「スイーツ(笑)」みたいな表現として現出することもある。少しってかだいぶ前か。

僕はこれについて、何か良し悪しをつけて評価したいのではない。結局のところ、僕だって<陽キャ>でいたいし、他の皆もそうだろうと思っていた。ただ、なにが問題かといえば、僕がもともと恥ずかしがりなことである。親戚と話すときなんかはつい最近まで(今でも?)気恥ずかしさが勝っていたし、これはほとんど人に話していないが、実は家の中での一人称というものが確立していない。というのは、「僕」だとなんだか他人行儀な感じがするし、「俺」だと今度はきつい感じがするのである。一方で、見知らぬ人とは割合話せてしまうのは、以前書いた「純粋旅行者」的な思考が働くからだろうか。そんな恥ずかしがりな僕が<陽キャ>であろうとするとき、いずれどこかで歪みが発生する。それは、友達と柄でもなく大声で談笑しているときにポロっとでる失言かもしれないし、異性の気を引こうとして失敗する瞬間なのかもしれない。あるいは、クラスで下手に知識を披露して白い目で見られる時かもしれないし、会社で上司の期待以上の働きをしようとして空回りするときなのかもしれない。そういう時、「ああ、<虚無>だ。」と機械的に発声する。最近、これに何か意味があるのかと考えないこともない。もっと有意義なことに限られたリソースを割いた方がいいに決まっているのだけど。

もっと有意義なことというのは、SNSなんかに縛られない(<>付けもしない)、充実、だろう。僕は自転車に乗って、心拍数が190とか200みたいな、頭のおかしい数字になりながら延々峠を上っていくとき、あるいはそこからあほみたいなスピードで下っていくとき、瞬間的に充実を感じるような気がする。自転車に限らず、他にもいくつかそういう瞬間はあるのだが、何が言いたいかというと、「あれ?<虚無><虚無>言ってないで楽しいことした方がなんかいい感じじゃね?」という、至極まっとうなことに最近結構思いを馳せがちですよという話である。

「俯瞰でみる」ということ

8月は早くも下旬を迎えようとしている。前回、僕が旅行に関するイキった記事を書いてから、はや2ヶ月が経過しているとは…。しかし、さらに衝撃的なのは、その文章の結びで、ワクチンの普及によって夏休みにはある程度旅行が自由にできるようになっているのではと予想していたことだ。実際のところ、日本国内のコロナの感染者数は日に日に増加しており、僕自身もそのために大変な影響を受けているところである。僕はいたって健康なのだが、しばらくは家に閉じこもっていなければならないので、まったく暇で、そして孤独である。そういった時(深夜などもしかり)、得てして考えても仕方のないような、ネガティブなことをいろいろと考えてしまう。考えたことをまとめでもしないと、大学1年の貴重な夏休みを無駄にしてしまうような気になるので、久々にキーボードを叩いている。

 


僕は、自分自身を「俯瞰でみる」ということに、ほんの少しだけ人より長けているのではないかと思う。俯瞰でみるという言葉を定義するのも難しいが、「俯瞰」という言葉の意味通り、tpsのゲームよろしく自分を上空から見下ろしているイメージだ。「客観視する」という言葉で言い換えることもできそうなものだが、今回はあえてそれらを区別したい。これは、自分のことを「客観視する」といったとき、観察の対象はあくまで自分自身のみであるが、「俯瞰でみる」といったときには、自分の周辺の事象も同時に観察しているニュアンスが入るように(個人的には)思えるためだ。

俯瞰でみるのが得意だというのは、優れたことに感じられるかもしれないが、それではこの記事がただ自慢に終始するだけの文章になってしまう。僕は自慢をただひたすら書き連ねた記事を世に出せるような性格ではないし、実際のところ、この件では悩ましい思いをしているというのが正直なところだ。さて、前述の定義のとおり、僕が俯瞰で自分を見た時、他者についても同時に観察している。ここで悩ましいのは、他者と自分を比較することを避けては通れないことだ。隣家との間にどんなに高い垣根があろうとも、それらを俯瞰で見ると、隣の青々とした芝生が嫌でも視界に入ってしまう。それを無視することができるのはある種の才能だろう。あいにく、僕はそんな才能までは身につけていなかったようだ。結局、自他の比較の中で自分が劣っている点にばかり目がいってしまう。これが、このブログを初めて書いたときにテーマとして扱った、自己嫌悪の原因の一つなのだと思う。以上の気づきが今日の本題で、それ以上でもそれ以下でもないのだが、僕とて好きで自己嫌悪をやっているわけではないし、自己嫌悪ばかりの女々しい男を魅力的だとは思えない、というか嫌いだ(これも俯瞰することで生まれる自己嫌悪そのものなのかもしれない)。なので、それを辞められるのならそれに越したことはないが、今のところ、具体的な対処法にはたどり着いていない。自転車に乗るなど、頓服薬のように一時的にストレスを解消することはできるのだが、日常的な自分の思考パターンを変更するのは容易なことではないのかもしれない。これについては、僕としても考え続けることになるだろうし、もしアドバイスがあれば是非頂きたいと思うところである。

「純粋旅行者」を目指して

今、僕が受けている授業の中に「人文学入門(歴史)」というのがある。この授業は人文系の教員数名が交代で授業をする、いわゆるオムニパス形式の講義なのだが、これがなかなか面白い。今年のテーマは「旅」だそうで、人文学(というと、かなり裾野は広いが)の様々なトピックに旅を絡めて紹介していく、という形式だ。文学、音楽、建築....。様々な分野において、旅は密接に関わってくる。この前の授業では、文士の堀田善衛が取り上げられた。堀田善衛というと、宮崎駿が敬愛していることで知られるが、彼の人生はまさに「旅」そのものだろう。興味のある方は、ご自身で彼の略歴をお調べになってほしい。さて、授業内で提示された彼のエッセイには、以下のような記述があった。少し長いが、引用する。

 

 

もう数十年も前のことであるが、ある作家といっしょに、ある外国を旅行して歩いたことがあった。ホテルで、その友人の作家と話をしているうちに、彼が目を伏せて、ぼそりといった。

「こうして毎日旅行をしてあるくと、一生懸命働いている人がバカみたいに見えるね」

と。

(中略)

 言うまでもなく、旅行者といってもそれは千差万別であって、行き先に、たとえば商用などというビジネスの仕事のある人などは、本来的に旅行者であるかどうかと問われなければならぬようなものであろう。そういう人は、行き先での定住者と責任のある応対、接衝(原文ママ)などをしなければならないのであってみれば、決してその対応者が、“バカみたいに”見えたりする筈はない。

 しかも、虚構のなかを浮遊して行くかのような、いわば純粋旅行者というものがもしあるとすれば、彼は旅先で何を見、何を観察するか。旅先で接する人々が、もし同じ人類の一員というほどの関係としてしか関係して来ないとすれば、必然的に彼の見る、あるいは観察するものは、それを見聞するおのれ自身の反応というものになるであろう。
世界・世の中・世間/堀田善衛

 

 

 さて、この文章に触れたのが、今回ひと月もさぼっていた記事の更新をしようと思ったきっかけなのだが、本文に出てくる「純粋旅行者」、すなわち、旅先の定住者との応対に責任を問われない形の旅行者というのは、まさに僕の理想の形であった。旅先において、純粋旅行者たる自分に対して責任を問うてくる存在というのは、少なくとも現地の規範にしたがっている限り存在しない。よく何かの設定で出てくる「毎朝、いつも通勤、通学に使う電車を反対方向に乗って、見知らぬ土地にいってしまいたい」といった考え方はこれに近いものがあるのかもしれない。日々、自身が会社や学校で負っている責任から解放されたいのだ。もう一つ。引用文によれば純粋旅行者には、彼(彼女)の観察対象が、旅先の様子を見聞するおのれ自身である、という特徴があった。実は僕はこの要素の方が大切なのではないかと感じている。それを踏まえて少し自分語りをしたい。

2020年12月31日。国立大学を志す受験生だった僕からすれば、一つ目の関門である共通テストの約2週間前、というタイミングだった。本来、受験生に大晦日も正月もあったものではないのだが、僕は前日の冬期講習終わりに新宿の大ガード下にある金券ショップで手に入れた切符を手に、北に向かっていた。今思えば、許しがたい暴挙である。当然、親には行先など報告していない。一応、電車内では倫理の本を読んで、脱構築だとか、実存主義だとか、むずかしいことを復習していた気はする。この時、とにかく僕は無性に雪が見たかった。これは間違いなく、他に似たようなことをしていた悪友(?)の影響で、深い考えがあってのことではない。しかし結局、僕は一路新潟に向かうのだった。いろいろ寄り道もしたのだが、一番行きたかったのは越後湯沢だ。ここはスキーのリゾートとして有名で、普段ならにぎわっているはずの場所だが、今回の目的は温泉だった。

 現地は雪が舞っていた。バカなことこの上ないのだが、豪雪地帯に行くにも関わらず雪用の靴なんてものは履いていなかったので、雪が2mは積もっていようかという中をやっとのことで温泉にたどり着くまでには、一苦労だった。びしょ濡れになりながら、とある公営の温泉にはいると、中には老人が数名。そのうちの一人に話しかけられ、どこから来ただの、いま何歳だのといろいろ聞かれる。自分が都心からやって来た受験生だと明かせば、ご時世のこともあって何をやっているんだといわれそうな気がしたので、北関東の某所からふらっとやって来た大学生ということで通しておいた。話を聞いていると、老人は湯沢の町の町内会長をしているらしい。若いころ、大晦日の日に大雪で汽車が動かなくなって、東京からの帰省に苦労した話を長々と聞かされた。もっとも、こういう話を聞くのは元々嫌いじゃない。ひとしきりその話を聞き終えたあたりで、お湯の熱さに耐えられなくなってきた。いくら雪の中を歩き、その雪を見ながら浸かっていても、熱いものは熱い。老人たちはなぜこんなにお湯の熱さに強いのだろう、などと思いつつ、挨拶をして外に出た。せっかく温まったので、帰りは駅まで冷えないようにタクシーで帰ることに。電話で聞きなじみのない会社のタクシーを呼んでから、到着するまでの間はぼんやりとたそがれていたと思う。タクシーの運転手とは、コロナ禍で客足はどうだとか、雪国のタクシーは初めてだとか、他愛もない話をしていただろうか。駅につくと、名物の笹団子と高崎から最寄り駅まで普段なら絶対に乗らないグリーン車で帰り、何食わぬ顔で年越し蕎麦を啜ったのであった。

 さて、受験生時代のこのような旅行経験をわざわざ披露したのは、この旅行内での自分に「純粋旅行者性」のようなものを感じているからだ。まず、この日の僕は、驚くほどコミュニケーションに責任をもっていなかった。温泉で身の上を偽るなどしているのがその例だ。そして、この日の僕の観察対象は、主として僕自身であった。むろん僕とて、一面に広がる銀世界だとか、公営浴場に集まる地元住民だとか、あるいは笹団子片手に乗り込む高崎線の列車といった風景に趣を感じないほど、寂しい人間ではないと自覚している。しかし、あの時僕は、はっきりいって疲れていた。極端に言えば、高校生のガキなりの逃避行だったのかもしれない。だからこそ、「新潟にいる自分」という非日常の風景には注意が向いていた。もっと言えば、「受験生なのに新潟に向かう自分」、「公営浴場で地元民と会話する自分」、「雪国のタクシーで運転手と話す自分」、「笹団子片手にグリーン車に乗る自分」....というような、ありとあらゆる「自分」に「浸っていた」のかもしれない。いつかこのブログであれほど自己肯定感の低さについて書いておいてなんだが、この時に関しては「浸っていた」という表現がやはり適当なように思える。一応、雪国でせっせと働くタクシー運転手を、引用文中の作家よろしく「バカみたい」だなどとは思っていなかったことだけ断っておくが、とにかく僕は、受験のプレッシャーという、他者から押し付けられているふうに見える責任を、その時ばかりは忘れ去っていたのだ。

 皆さんも日々抱えるストレスはとても大きい事だろう。まして、この緊急事態宣言下では自由に旅行するのも憚られる。だがどうだろう、ワクチンの接種は進み、今週末には宣言も解除されると聞いた。「純粋旅行者」になって自分勝手な旅をしてみるのも、夏の時間を有意義に過ごすにはよいのではないだろうか。僕も、そんな旅をたくさん経験したい。