しおの雑記帳

暇で、僕に興味がある人以外は見ないほうがいいです。黒歴史を生産します。自己満です。

魅力のない自分という呪縛

初めに断っておきたいが、僕は相当に「めんどくさい」ヤツなので、僕などという平凡で、いくら噛んでも味がしてこない人間に興味があって、なおかつ自分の時間を無為に過ごすことにためらいのない人以外はこの文章を読まないことをおすすめする。また、この文章は日記の延長線上のようなものなので、日常生活で使っていたら明らかにキモチワルイ、クサイと感じるような言い回しも多々出てくることも記しておく。ここは一言でいうと、僕の「黒歴史工場」だ。

 

 

さて、このころ自分の魅力とはなんだろうかと、とりとめもなく考えてしまう。こういう自分のまとまりのない思考を文章におこし、あわよくばよそ様に見ていただくことで共有したいというのがこのブログの趣旨だ。ネガティブな考えも当然でてくるわけですが、最初のお断りを読んでなおも文章を読み進めているあなたならそれも当然受け入れられますよね?

僕は、一橋大学などという大層な大学に通い、高校時代は生徒会で務めを果たし、あるいは定期テストでいつもクラストップかその次くらいの位置にいるといった具合に、「優等生」的キャラとして市民権を得ていたものと自負している。しかし、この頃そうした表面的で、無味乾燥な自分に嫌気がさして仕方がない。むろん、一橋に入ることができる生徒の数は非常に限られており、その枠の中に自分が入ることができたことは非常に光栄に思うし、「優等生」になりたくてもなれない人が世の中にごまんといることは承知している。だが、一方でそうした「優等生」キャラが集まったともいえる一橋の中では、自分の特徴などというのは特徴ですらないくらい希薄なものとなってしまう。高校生のとき、僕は、自分から「勉強」とか、「真面目」みたいな要素を取っ払ってみた。そこに残っていたのはどこまでも広がる荒野のような、「無」だった。自分は特に高身長でもなければ顔もよくない。料理も音楽も得意じゃないし、文化的素養も低い。男性としての魅力があるとも思えない上に、そういう経験もないに等しい。

自分の面白みのなさに気づいたとき、僕は自分のことを嫌いなのだと自覚した。生活力の低い自分が嫌いだし、経験の少ない自分が大嫌いだ。そして、そんな自分の嫌いな部分を人に見せまいとして、肩に力をいれて、必死に取り繕ったペルソナで自分を覆い隠そうとした。周囲からは褒められ、興味をもたれ、時には好意を寄せていただいた。だが、そうした感情の対象はあくまでもペルソナを被った自分であって、素の自分ではない。そんなことを考えているとますます自己嫌悪は深まる。ペルソナなしの自分をさらけ出せることができていたのは片手で数えられる程度の人数くらいなもんで、ペルソナに顔面を圧迫されて押しつぶされそうになったときなど、その方々、並びに医薬品には本当にお世話になった。そんなこともありつつ、結局根本的には何も解決しないまま、高校生活を終えた。高校生活が楽しくなかったといっているのではない。むしろ、京都での三年間は素晴らしい人との出会いの連続で、それは充実したものだった。だが、そうした中で魅力的な人に会えば会うほど、自分の薄っぺらさを自覚させられるのもまた、事実だった。

そんな僕が、こんな文章を書く気になって、しかもそれを人に見られる状態にしようと思ったのには理由がある。皮肉なことだが、それもまたある人との出会いだった。その人もまた、今までにあってきた人のように魅力的で多才だった。自分とは違って奥が深く、経験豊富で底知れない存在のようにみえた。しかし、その人はなんだか素の自分を無条件に受け入れてくれそうな気もした。僕は揺さぶられた。その人は、僕の内側にしまいこんであった自己嫌悪の感情を表に引きずり出した一方で、それを受け入れてくれようともした。僕は今でもそれをどう処理していいか分からずにいる。だが、一つ分かったというか、体感したことは、「魅力のない自分」を認識し、自己嫌悪に陥ったときにとることのできる選択肢は複数あるということだ。一つは僕がしていたようにペルソナで取り繕うこと。もう一つは、いったん素の自分をさらけ出してみること。案外、受け入れてもらえるものなのかもしれない。どうしたもんかな。

 

 

全く、突然こんな文章を書いて何をしているんだとお思いの方も多いことと思うが、前々からやってみたいとは思っていた自己満足なので、次回以降があれば、生暖かい目でご覧いただけたらと思う。